home about atelier mural works easel works モザイク教室 モザイク年表 mail ブックレビュー
パリ、オペラ座のモザイク
工期・1861〜74年。竣工 1875年
設計および床モザイクデザイン・シャルル・ガルニエ(Charles Garnier)
モザイク制作・ジャン・ドメニコ・ファッキーナ(Gian Domenico Facchina)
ロビー入り口の人物モザイク原画・ド・クルゾン(De Curzon)
同モザイク制作・サルビアーティ社(Antonio Salviati)1856年ムラノ島にて設立

モザイク再生の立役者、世界一有名なモザイク作家、ジャン・ドメニコ・ファッキーナ

フランスにおいては19世紀以前、大規模な公共建築物にモザイクの装飾が施されたことがなかった。
モザイクといえば長い工期が必要で、そのため非常に高価な技法として知られていて、当時のフランス人にとってはイタリア人の専売特許で高嶺の花だった。
ナポレオン三世のパリ改造計画の一翼を担う、オペラ座の建築が若いシャルル・ガルニエに依頼されたのは1860年のこと。171人の候補者の中から選ばれたらしい。彼が装飾的な作風の設計家でいずれモザイク装飾を手がけてみたいという強い願望の持ち主だったことがモザイクにとって幸いした。
その願望は一旦は挫折する。時間も経費も高くつきすぎるからである。しかし1867年のパリ万博でイタリア人ドメニコ・ファッキーニと出会ってから一気に事態が動き出し、ガルニエの夢は一気に実現に向かう。ちなみに当時はパリでしょっちゅう万博が開かれていて、ファッキーナが参加したものだけに限っても、1867年、1878年、1889年、1900年とあった。

ファッキーナの技法によれば、オペラ座のモザイクの制作費は20分の1近くまで節約できることが分かった。モザイクという憧れの技法が実現できるのだ。

ガルニエが原画を描き、ファッキーナがモザイクを制作する。そういうコンビでオペラ座の床モザイクがまず作られた。ガルニエのデザインは植物模様と幾何学模様を組み合わせたもの。このモザイク制作がうまくいったので、壁にも作ることになった。
壁面のモザイクはファッキーナとサルヴィアーティが担当した。サルヴィアーティもファッキーナに技法を学び同じ技法で制作した。このサルヴィアーティがまたすごい腕の持ち主だ。
オペラ座では4つの階の床、回廊の天井、ロビー入り口、外壁の細部など各所に、ファッキーナのモザイクが取り付けられた。サルヴィアーティはロビーの天井の神話の4つの人物像を担当した。原画はデ・クルゾン。人物像の周りの模様はファッキーナの担当。
オペラ座は1875年に竣工式を迎えた。それ以前にもうモザイクのことは知れ渡っていたが、竣工によってその評判はますます高まり、ファッキーナの工房には他の国からも注文が殺到するようになった。アメリカや日本にもその作品を送ったとのことである。日本では京都御所にあるらしいが私は未確認である。
パリの工房だけではさばききれなくなり、1877年にはヴェネツィアにも工房を構えた。ズマルトの製造にも着手し、その技術を担当したのが、アンジェロ・オルソーニである。やがて関税の高騰に堪えられず、1888年にファッキーナはヴェネツィアの工房をたたんでパリの工房に専念する。そのときズマルトの分野はオルソーニに譲り、オルソーニ社は今に至るまでズマルト製造の第1人者として高品質の製品を作り続けている。
このファッキーナを辟易させた関税の高騰は、当時フランスとイタリアの間で行われた関税戦争に原因がある。両国とも自国の産業保護のためにやたらと関税を掛けまくったのである。その結果輸出入が困難になってしまったのだ。

ファッキーナには1886年レジョン・ドヌール勲章が与えられ、当時最も有名なアーティストの一人としてパリで名声を博した。ファッキーナは生涯一人のモザイシストとして制作に係わり続けた。晩年になっても遠くの現場にも惜しまず足を運び、仕上げをチェックした。
彼の産まれ故郷はイタリア、フリウリ州のセクエル(Sequels)という町。そこにはジャン・ドメニコ・ファッキーナの名が付けられた通りがある。

彼はモザイクを時代に対応する技術として再生し、表現の可能性を広げるという重要な役割を果たした。彼以前のモザイシストたちは乱暴な修復家であり、または、油絵のコピーを作り、お土産用にモザイクの古典のコピーを作る職人であったが、彼のお陰で建築装飾の分野に復帰し、モザイクの新しい発展を開始するきっかけを作ることができた。彼は1903年に没する。工房はほどなく売却されてしまうが、彼の残した火はどんどん大きくなっていった。

ファッキーナの技法について。

ファッキーニはベネツィアのサンマルコ寺院の修復を通してモザイク技術を学んだ人。叔父に頼んでコネを頼りに工房にもぐりこんだらしい。
腕をあげた彼は、古典的な修復技法はもう時代に合わないと見て、新しい技法を開発した。それは「裏返しの紙張り技法」と呼ばれた。水溶性の糊(小麦粉糊)を使って、修復するモザイクに紙に張り、紙の上にさらに布を張って補強して壁から剥がして、補修を施す。補修終了後現場の壁や床に戻したり、新たにパネルに移設したりするというもの。現代ではごくごく当たり前の技法だが、彼以前にはこの技法を用いる者がいなかった。当時は修復するモザイクを一旦破壊して、再制作する感じで修復していたようである。そういう乱暴な手法に比べると、ファッキーニの方法はオリジナルのモザイクを損なわずに修復できる非常に有効な技法だったのである。
この技法は新作の制作にも用いられた。原画を裏向きに紙に写し取って、そこに裏向きにモザイクを作っていく。モザイクのテッセラは小麦粉糊で貼る。並べ終えたら、40〜50pほどのサイズで切り離す。現場に運んでモルタルに埋め込んで設置する。設置後、水で紙を剥がせばモザイクの表面が顔を出すという手順だ。当時としては革新的な技術だった。
ファッキーナはすでに1852年に自分の工房を南フランスのベジェ(Beziers)に開いて、自分の技法を用いてモザイクの修復を中心にこなし、修復家として既に高い評価を得ていた。しかし、助言者もあり、1860年にはナポレオン三世によるパリ大改造計画の最中のパリに工房を移し、その大規模建設ブームのなかで自分の仕事を探しながら1867年の万博にも参加して、オペラ座のガルニエに出会ったのである。ファッキーナはオペラ座の仕事をきっかけに大成功を納めていくのだが、それは単に新しい技法を開発したからではなく、まず第一にモザイシストとして抜群の腕を持っていたことは強調しておきたい。それがあってこその成功だったのである。